昨日ふと本を読んでいて、プラトンのイデア論と自分自身の現在の在り方について少し考えてみました。
プラトンは、イデア論にて以下のように言い表しました。
イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の真実の実在的存在であり、感覚的事物はその影であるとする。
イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる。 プラトンはこのイデア論に基づいて、認識、道徳、国家、宇宙の諸問題を論じて、哲学者の任務はこのイデア界を認識して、現実の世界をこの理想世界に近づけることとしました。
例えば、現実の世界に、円形をした物はたくさん存在しますが、、いずれも完全な円ではありません。
しかし、これらの円の背後には永遠不変で、完璧な円のひな型であるイデアが存在するとしています。
また、人間が花を見て美しいと感じるのは「美」というイデアが実在しているからで、個別の花に「美」のイデアが分有されているからとしています。
また、人間の持つ感覚は不完全であるため、五感によってイデアを捉えることは出来ません。プラトンは、理性で認識することによってのみ、イデアに至ることが出来ると考えました。
まず私が思ったのが、理性と感覚の違いを感じ取る難しさです。
私たちは日常生活の中で、五感を物差しとして、眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)をもって、すべての事象をはかります。
絵を描くときでも視覚、触覚を使って、円を書きます。
しかし、私たちの頭の中に存在する円は、まさにひな型そのものじゃないでしょうか?思い浮かべてみてください!
頭の中に存在する円。それが思惟です。つまりここでいう理性的思惟にあたります。
物質的なイデアは、精神的在り方に対するイデアと比べると、認識がしやすいのかもしれません。
物質的な 円だとか形の在り方。
それに比べ 精神的な 自分がなりたい人間や成長していく方向は 時代によって変化します。いや、時代というより自らの環境によって。
でも確かにいう通り、私自身を含め人々は、イデアを追い求めすぎてしまうことがあります。
でもそういった自分の考える完璧なイデアに囚われ過ぎていると、大事なチャンスだったり、逆に堅くなりすぎて見えにくくなるものがあるのかもしれないと思いました。
それにしても、このイデア論は実体論などにも影響しているので、
これを考えたときにすぐに 私の好きな
ジョルジュ デ キリコの
the metaphysical 形而上学 を思い浮かべました。
形而上というと、 時間や空間の感性形式をとる感覚的現象として存在するのではなく、それ自身の超自然的な、ただ理性的思惟によってとらえられる存在です。
形而上学というと、現象を超越してその背後に有るものの本質、存在の根本原理、存在そのものを純粋思惟によって探求する学問です。 よく神だとか世界とか霊魂がテーマになります。

ジョルジュ デ キリコが絵で表したもののなかには、首のないマネキンなど現実では考えられない絵がさまざまです。
しかし、彼の理性的思惟では捉えることのできる内容がその絵の中に表されているのです。
それがまさに彼の認識したイデアであると私は思います。
そう考えると、なぜか世界が少し変わって見えるようになるような気がするのは、私だけでしょうか?
五感だけでなく、理性的思惟から想像(というよりも創造に近い)することに集中してみるとイメージが湧きやすいんじゃないでしょうか?
私の好きな本の中にこんなフレーズがありました。[
確かに存在するのに感じ取れなくなる、どんどん鈍くなる。。。 ]
確かに現代社会では、五感や目先の事柄に日々を追われて 落ち着いて考えたり、ゆっくりと静かに事象を感じ取ることがしにくいのかもしれません。
しかし、ふと空の青さに眼を向けてみたり、道端に咲く花を観賞してみると、自分の生きてる世界がもっと素晴らしく思えるかもしれない。
それに加えて、理性的思惟で物事を観察してみると、世界はより変化に富んだものに見えるかもしれません。
第六感ではありませんが、人間のもつ特殊な能力である理性的思惟を、存分に働かせて日常生活を送ってみると 何か変わって見えることがあるのかもしれません。。。。。
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